The French and Indian (Seven Years’) War

フランス人はオハイオでも活躍し、エリー湖からフォークスに至る通信路を開設していた。 このライバルはモモンガヘラ川で衝突し、ワシントンは降伏して退却を余儀なくされた。 この衝突が、アメリカではフレンチ・インディアン戦争(1754-63)、ヨーロッパとカナダでは七年戦争(1756-63)として知られる英仏戦争の始まりとなった。

戦争開始当初、両者は大きく不利な状況にあったようだ。 イギリス植民地は100万人以上の人口を抱え、ニューフランスの7万人に比べ、農業経済が好調で、西インド諸島やイギリスとの貿易関係も発展していた。 大西洋岸に位置し、人口が多く、面積が広いため、フランスが戦争で望むのは現状維持が精一杯であった。 新フランスは経済的に弱く、貿易と防衛をフランスに依存し、大陸への海側出口がニューオリンズとケベックの二つしかなく戦略的に脆弱であった。 しかし、フランス人と地元の民兵は優れた兵士であり、森林戦の経験も豊富で、数千人のインディアンの同盟者によって支えられていた。 また、1756年にはフランスから正規軍12個大隊(約7000人)、大砲隊、そして優れた陸軍大将であったモンカルム侯ルイ=ジョセフ・ド・モンカルム・グロゾンの指揮という形で軍事支援を受けた

紛争は世界中で行われ、インド、北アメリカ、ヨーロッパなどでも公海上と同様に戦われた。 海運を主とするイギリスは、当初アメリカにおいてフランスを圧倒する陸軍資源を持たず、植民地の民兵に大きく依存せざるを得なかった。 しかし、植民地は政治的に混乱しており、民兵は新フランスの民兵ほど組織化されておらず、訓練もされていなかった。 1757年にオスウェゴ砦とウィリアム・ヘンリー砦を攻略し、1758年にはカリヨン砦(タイコンデロガ砦)でイギリス軍を厳しく撃退した。 その後、より多くの兵力と物資、そしてより巧みなイギリス人将軍の手腕により、流れが変わり始めた。 1758年、英国はケープ・ブレトン島のルイブールを占領して破壊し、翌年にはジェフリー・アマースト卿がウィリアム・ヘンリー砦からカリヨン砦を経てシャンプラン湖への慎重ながらも抵抗しがたい進撃を開始した。 1759年、ジェームズ・ウルフ将軍率いる遠征隊がセント・ローレンスを遡上し、ケベックを包囲したが、有名な「アブラハムの平原の戦い」の後、ケベックは英国に降伏した。 サー・ウィリアム・ジョンソンはナイアガラを、ジョン・フォーブスはオハイオのフォークスを占領した。 ニュー・フランスは、無残にも閉じられた鉤爪に捕らえられていた。 1760年、アマーストはモントリオールに迫り、ニュー・フランスは降伏した。 1763年のパリ条約により、ミシシッピ川以東の北米フランス領は、ニューファンドランド沖の小さな島々、サンピエール島とミクロン島を除き、すべてイギリスに割譲された。

Battle of Quebec

フレンチ・インディアン戦争中の1759年9月13日、アブラハム平原の高台を登ってフランス軍と戦うイギリス軍、イギリス軍の副官ハーベイ・スミスによる彫版画。

Hulton Archive/Getty Images

英国の勝利は3つの大きな結果をもたらした。 第一に、新フランスからアメリカ植民地への危険が絶たれ、イギリスへの依存度が弱まったことである。 第二に、イギリス人(主にスコットランド人、一部アメリカ人)はカナダの毛皮貿易を引き継ぎ、拡大させた。 そして第三に、イギリスは、ほぼ完全に外国人の血を引き、ローマ・カトリックを信仰する人々が住む植民地を所有するようになったことである

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