油注ぎは聖霊ご自身

油注ぎは聖霊ご自身
油注ぎは聖霊ご自身

油注ぎは聖霊ご自身油注ぎは聖霊ご自身。 油注ぎは物質、物、液体、油などではなく、人であり、聖霊

イザヤ 61:1 主なる神の霊がわたしにあるのは、貧しい人々に福音を宣べ伝えるためにわたしに油を注がれたからである。 主は私を遣わして、心砕かれた者を縛り、捕われ人に解放を告げ、囚人に暗闇からの解放を告げられた」

油注ぎは聖霊ご自身

主なる神の霊(イザ61:1)は聖霊である。

イエスが言ったとき、「主の霊が私の上にいるのは、貧しい人々に福音を告げるために私に油注がれたからである。 捕らわれた者に救いを、目の見えない者に視力を回復させ、虐げられている者を解放することを宣べ伝えるために、主はわたしを遣わされた」(ルカ4:18)

イエスは、自分が聖霊によって油を注がれていると言われたのである。

イエスはいつこの油注ぎを受けられたのであろうか。 イエスを現わすために来たバプテスマのヨハネにバプテスマを受けたとき(ヨハネ1:31)であり、このようであった

Mt 3:16-17 イエスはバプテスマを受けるとすぐに水の中から上がられた。 その時、天が開かれ、神の霊が鳩のように下って、御自分の上に降りたのをご覧になった。 そして、天から声がして、「これは私の愛する子、この者に私はよく満足している」と言った。

神の霊、聖霊は鳩と光としてイエスに下った-油注ぎ

弟子たちはイエスとともに歩んだが、イエスが十字架につけられ、死に、復活するまで決して油注ぎを受けることはなかった。 そして、次のように二度油注ぎ(聖霊)を受けた。

1.

ヨハネ20:22 イエスがこう言われると、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われた。

ここで弟子たちは聖霊の洗礼を受け、油注ぎは彼らとともにあるものから彼らの中に住むものになった。

弟子たちは決して水のバプテスマを受けなかった。イエスがバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けたとき、ヨハネの務めは終わり、水のバプテスマは聖霊によるバプテスマに取って代わられたと、ヨハネは証ししている。

Mt 3:11 私は確かに水で悔い改めに洗礼を授けた。しかし私の後に来る者は私よりも強く、私には負うべき資格がない者である。 その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けるであろう。

ペンテコステ(七週の祭り)の時

イエスは昇天する前に弟子たちに約束を待つように指示されました(使徒1:4)。 聖霊の油注ぎが下ったのは、週ごとの祝祭のときである。 すると突然、激しい風のような音が天から聞こえてきて、彼らが座っている家全体に満ちあふれた。 そして、火のような舌が彼らに現れ、それは彼ら一人一人の上に座った」

2種類の油注ぎを見よ-内と上に

上の油注ぎは福音を宣べ伝えるためで、それは呼ばれ、型にはめられて送られる者のためのものである。

召されることと送られることの違いを参照

油注ぎは目的のためにある

イエスが自分は油を受けていると言った時、油注ぎの目的を明らかにした…貧しい人に福音を伝えるために私に油を注がれたからである。 捕らわれた者に救いを、目の見えない者に視力を回復させ、虐げられている者を解放することを宣べ伝えるために、私を遣わされたのである(ルカ4:18)

聖霊による洗礼、油注が、救いのためにある。

コリントでパウロが、水のバプテスマを受けた者に、聖霊のバプテスマを受けたかどうか尋ねるのを見ます。 そしてパウロを通して聖霊を受け、彼らはキリストの花嫁となった。 (使徒19章)

水のバプテスマではキリストの花嫁(教会)にはなれませんが、聖霊のバプテスマはそうなります。

什分の一、献金、断食、犠牲、教会に行く、貧しい人を助ける、ミニストリーで奉仕する、福音を伝える、などはあなたをキリストの花嫁(救われる)にしませんが、聖霊があなたの中に住み、油注ぎ、聖霊のバプテスマはそうしてくれます。

聖霊に導かれ、従順になるのは、油注ぎのおかげです。

油注ぎは、福音を宣べ伝える力です。 悪霊を追い出し、癒し、解放し、捕虜を自由にするのは、この油注ぎのおかげである。

油注ぎは救いにならず、油注ぎだけが救いになる。

油注ぎを失っても、サウロのように油注ぎがあり、地獄に行くことができる(滅びる)。 奇跡と不思議をもって福音を宣べ伝えても、滅びることがあります。

地獄で福音を伝えた多くの人を見ました。

地獄の中の私の旅をご覧ください。

油注がれた人を見分ける方法

人に宿っている聖霊(油注ぎ)は、

1.聖霊を見分ける方法です。 神殿を見る

私たちの体は聖霊の神殿である(1コリ6:9)。

多くの人は油注がれたと主張するが、その神殿は忌まわしいもの、呪われたもの、外国の神、遊女のような服を着たサタンの神殿であり、聖霊はその中に住めない。

その神殿から出るものを見て、もしその憎しみ、議論、噂話、汚い言葉、罵倒などなら聖霊はその神殿にいないのだ。

神の霊が宿っている神殿は、内も外も聖なるものです。

聖霊の実

聖霊が宿っている神殿は、その実を表わします。

Gal 5: 22-23 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、寛容、自制です。

夢や幻は油注ぎのしるしではありません、聖霊はあなたの中ではなくあなたといる時に夢を与えることができるからです。 ファラオが夢を見たこと、ネブカドネザルが夢を見たことなどを思い出してください

人間と聖霊の3つの関係を参照してください

異言を話すことは聖霊によるバプテスマのしるしではありません。 異言を話すを参照

油注ぎは、しるしと奇跡と不思議によって現されます(マコ16:15-19)。 神の国は言葉ではなく、力である。

今日、ある人が「私は油注がれた」と言うのを聞いて、その油注ぎは何か、その目的は何かを尋ねると、彼らはまだ油注がれたと主張するのを知らない。

一国の大統領が「私は大統領だ」と言う必要はないが、偽物は叫ぶことによって認識されなければならない。

福音を宣べ伝えるために油を注がれた人が、預言者、使徒、伝道者などの称号を自ら与えて叫ばないのは、その人が奉仕の心を知っていて、しるし奇跡不思議を通して油注ぎがご自身を現わすからです。

イエス・キリストのしもべは自分自身に肩書を与えないことを見よ

「私は油注がれた」と叫んではならない。油注ぎはご自身を現し、本当に彼があなたの中にいるならば、悪霊でさえこの男/女は確かに油注がれたと言うだろう

油注ぎは聖霊だが、今日油注が物、家、油、石鹸、装飾品等に変わっている-それは魔術だ。

あなたが持っていると主張したり、人々が持っていると主張したり、受け取った油で、聖霊でないものがあれば、それは悪魔であり、あなたは解放を必要としています。

イエスは来られる

悔い改めてください

天の国は近づいたので悔い改めてください

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